君は空。僕は雲。

思いついたことを好きなように書き連ねるだけのブログです。

世界なんてデカいこと

「あなたに届きますように」なんて歌っているミュージシャンは届いた人から入る金に期待している。

 


「自己中心的になってはいけません」と自分の利益のために言う。

 


「こんなブログ読んでいただいて本当にありがとうございます。(広告収入が入るので)」

 


「こんなクソ政権を倒して(自分に都合の良いように)国を改革しよう!」

 


「この神様を信じないと天国に行け(ないとは思わないけど私たちに収入が入り)ませんよ」

 


「他人に気を使いなさい」…お前もな

 


「その行動、マナー違反ですよ」と上から目線で言う

学校は集団生活を学ぶ場所か

私は小学校、中学校と、学校に馴染めなかった。

 

私は小学校、中学校と、普通の公立校に通っていた。私の地元はさほど治安が良いわけではなく、ヤンキーというものが日常に住み着いていた。

 

小学校時代は虐められるという経験をした。先生は虐めを解決しようなんてまったく考えていなくて、ケンカの仲裁に尽力していた。そのときに受けた左膝の傷はどうやら去年か一昨年辺りにようやく消えたらしい。

中学校に入ると、私の周囲には学校のトイレで煙草を吸う同級生もいたし、先生と胸ぐらの掴み合いをする生徒もいた。ストレスで退職する先生もいたりと、生活するにはストレスフルな環境だった。

ヤンキーたちは性的にも乱れていて、ヤンキー内に童貞、処女はおそらく遅くても中学生のうちにいなくなったはずだ。高校生の時に子どもができている人も当然のようにいた。

 

当然そのような環境では授業は授業になるはずもなく、まじめに聞こうとする人はいるにはいたが、実際に聞けていたかは定かではない。私も実際学校の授業は睡眠時間だった。その代り、塾で勉強していた。

授業が授業にならず、学校に来ない、来ても先生と問題を起こすヤンキーたちがいる中でも、行事ごとになるとみんなで団結をした。

いや、正確にはヤンキーが「絆」なんてダサい言葉を自分勝手に拡大解釈して自分たちのノリを他人に押し付ける恐怖政治を行なっていたにすぎないのだが。

私も学校生活で面倒なことにならないようにヤンキーの「絆」にノッているフリをした。ノらないと、何が起こるかわからないからだ。とは言っても私の中学時代のヤンキーたちはまだ良心的な方で、自分たちで完結する傾向にあったのだが。

 

私はヤンキーたちに陰キャと評された人たちとある程度は仲良くしていた。しかし、一方でヤンキーたちとも仲良くしていた。そのような人は校内では比較的珍しい方だったのではないだろうか。どっちに向いている自分も何かを隠していたのだが。最近、ある人に、私は自分の内側に誰も入れたがらないと評されたのだが、もしそれが本当なのならばおそらくこの時期に生成されたのだろう。

 

このように私は小学校中学校で生活している中で、物理的強者の圧力から逃げ出すために、自分の感情を隠すことを学んだ。大学生の今、私は完全自分の居場所を見つけ切ったので、何も問題は起こっていないのだが、その当時のことを思い出すようなことはそうそうないし、連絡先を知る人は数人いるが、連絡を取り合っている人は誰もいない。

 

 

ところで「学校は集団生活を勉強する場所」だ、という言説を聞いたことがあるだろうか。私はこれを聞いて、まったく理解できなかった。私の小学校、中学校時代の生活は抑圧の歴史であり、集団生活について何も学ぶことができていないからである。

しかし、今では、その意味がわかるようになってきた。

まず、前提として集団生活とは「異質な他者を受け入れる」ことに等しい。集団の中で不和なく生活するためには、「異質な他者を受け入れる」以外の方法がないからである。

そして、大人になって「異質な他者を受け入れる」ということに失敗した取り返しがつかなくなるらしい。人種差別やテロ事件を見て感じることだ。

では、どこで「異質な他者を受け入れる」準備をすることができるのか。それは唯一子ども時代である。現代は皆学の時代なので、特に学校における準備が大きなウェイトを占める。しかも公立校の場合、そもそも「異質な他者」の範囲が非常に広い。その家の財産もさまざまであるし、本人の性格も、親の経歴もさまざまであるからだ。

そのため、まじめな人からヤンキーまで、振り切れた「異質な他者」たちと交流することができて、大人になってからは失敗することができない集団生活を学ぶことができるのだ。

 

音楽は魔法ではない

最近、夏の魔物フェスで大森靖子とYogee New Wavesの争いが勃発したらしい。大森靖子が「音楽を捨てよ、そして音楽へ」という歌の中で「音楽は魔法ではない」とシャウトする部分があるのだが、それを薄っすら聞いたYogee New Wavesがその直後に「音楽は魔法だ」とMCで言って、その上無断で大森靖子のバンドメンバーのベースを借りたということだ。それを知った大森靖子はぶち切れて、Yogee New Wavesは全面的に謝罪したそうだ。私は残念ながらYogee New Wavesの音楽は聴いたことがない。しかし、大森靖子の音楽は少しだけ聴いている。

 

では、音楽は魔法なのか。大森靖子自身の作った音楽を使いながら、考えていくことにする。

 

最初に、大森靖子の「音楽を捨てよ、そして音楽へ」の歌詞を見てみよう。

 

   脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能
   ダサい ダンス ダウンロード
   って言ったら負けのマジカルミュージック


   君話してたこと
   もっと大事だった気がするんだ
   お天気だってよかったし
   お財布だって空じゃなかった
   身体検査の前の日に
   下剤を呑んで軽くなって
   ピョンピョン跳ねたらイジメにあった
   たのしそうなやつムカつくんやって
   画用紙一面の真っ赤な海も
   ブルーにしろって教育された
   友達になりたい子ばっかなんで
   サヨナラも言わずに いちぬけた
   面白いこと 本当のこと
   愛してるひと 普通のこと
   なかったことにされちゃうよ
   なかったことにされちゃうよ
   面白いこと 本当のこと
   愛してるひと 普通のこと
   言わなくても伝わるマジカルミュージック
   抽象的なミュージックとめて

   脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能
   ダサい ダンス ダウンロード
   って言ったら負けのマジカルミュージック
   ドキドキしたい ドキドキしたい
   赤い実はじけたい はじけらんないよ
   そこでどうですかマジカルミュージック
   邦楽洋楽夢のよう
   YO! YO!
   んなわけあるわけねーだろ
   音楽は魔法ではない

   隣のババアは
   暇で風呂ばっかはいってるから
   浴槽で死んだ
   私は歌をうたっている
   どういうことかわかるだろ
   ノスタルジーに中指たてて
   ファンタジーをはじめただけさ
   全力でやって5年かかったし
   やっとはじまったとこなんだ

   音楽は魔法ではない

   でも、音楽は

 

この歌の歌詞はおそらく大森靖子自身の覚悟とか、今までの経歴とかを書いているのだろう。学校というシステムには馴染めず、音楽を始めても芽が出るまで何年もかかった。そのような自分を解放できるのが音楽だが、それは魔法ではない。といった意味だろうか。

 

しかし、最後の中途半端に終わる歌詞が気になる。「でも、音楽は」の部分だ。この部分が明示されていないので、私たちはそれを想像するしかない。では、そのほかの歌の歌詞を引用してみよう。

 

「ググって出てくるとこならどこへだって行けるよね」(きゅるきゅる)

これはメジャーデビュー曲の歌詞の抜粋である。当時、彼女はインタビューで、この歌詞はフックでしかない。ググって出てくるとこだったらどこへでも行けるはずがないし。といった趣旨の言葉を残している。

どう考えても確かにそうだ。今現在、ググったら当然のように知的生命体がい得る星が結果に出る。しかし、そんなとこには行けない。

 

「照らせ今 照らせ未来 ぐるぐる回る孤独を照らせ 魔法が使えないなら死にたい」(魔法が使えないなら)

この部分は露骨に自分の「馴染めなかった」経験が歌詞として出ているところである。「魔法が使えないなら死にたい」と極端なことを歌っている。しかし、裏返すと、魔法を使いたいのである。

 

「私のゆめは君が蹴散らしたブサイクでボロボロのLIFEを掻き集めて大きな鏡を作ること」(マジックミラー)

最後はこれにしておこう。これは自分と大森靖子という歌手像の乖離に悩んだ本人がその末に作ったものらしい。ここではおそらく、歌手「大森靖子」としての自負を歌っている。リスナーの心を汲み取った曲を好きなように作り続けるというところだろうか。

 

この辺りの歌を聴くに、(そのほかの歌もあるが)私は「でも音楽は」の続きを書きたいと思う。確かに音楽は魔法ではない。音楽という自分なりの救いを見つけた大森靖子はそれで食べるために5年もかかった。救いなのにそれで生活を変えることができないものが魔法なことはありえない。私自身も音楽で一発で劇的に人生が変わったことはないし、たまにいる突然変異の天才以外の99%の人にとってはそのような経験はないだろう。だから音楽は、魔法ではない。

しかし、自分を救ってくれた音楽は魔法であってほしいし、そのような音楽がないのならば自分は死んでいただろう。

つまり、「でも音楽は魔法であってほしい」となる。と、私は結論付ける。

当然そのほかの結論を導き出す人たちもいるだろう。でも、それも当然正解である。だってそれは「私の幸せ」に過ぎないのだから。